この記事を読めばロザンナ・ザンボンさんの生い立ちから結婚、夫との別れ、そして第一線で活躍し続ける理由まで、ひととおり分かるようになっています。
「徹子の部屋に何度も出てるけど実際どんな人なんだろう」って気になってこの記事に来た方、けっこう多いんじゃないかなと思います。
私も今回調べていて「え、そうだったの」と驚く部分が結構あったので、その気づきも含めて正直に書いていきますね。
ロザンナ・ザンボン基本プロフィール
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 本名 | Rosanna Zambon(日本名:加藤絽山奈) |
| 生年月日 | 1950年7月3日 |
| 年齢 | 76歳 |
| 出身地 | イタリア・ヴェネト州スキオ |
| 血液型/星座 | O型/かに座 |
| 来日 | 17歳の時 |
| デビュー | 1968年「愛の奇跡」(ヒデとロザンナ) |
| 結婚 | 1975年2月、出門英さんと |
| 子供 | 長男・士門さん、次男・来門さん、長女・万梨音さん |
| 夫との別れ | 1990年6月、結腸がんのため47歳で死去 |
| 主な肩書き | 歌手、イタリア家庭料理研究家、剣道3段 |
そもそもロザンナ・ザンボンって何者なんだろう
まず基本のところから整理してみます。名前は知ってるけど詳細は知らない、という人が実は多い気がしています。
本名と出身地を調べてみたら
ロザンナさんの本名はRosanna Zambonで、日本名は加藤絽山奈というそうです。生まれは1950年7月3日、イタリア北部ヴェネト州のスキオという町なんですね。
ミラノとベネチアの中間くらいの、アルプスに囲まれた場所らしくて、正直私は地図で確認するまでピンと来ませんでした。
血液型はO型でかに座、そして剣道3段というのがちょっと意外だったポイントです。歌手のイメージが強いので、剣道をやっているというギャップにびっくりしました。
来日のきっかけが想像以上にドラマチックだった
来日は17歳の時だったみたいです。
徹子の部屋では、母親の弟2人が日本でイタリアのバンド活動をしていて、東京オリンピックの時に呼ばれて来日し、その3年後にロザンナさんも呼ばれる形で日本に来たという経緯が語られていました。
つまり叔父さんたちの伝手だったわけですね。
すき焼きを見て仰天したという逸話も番組内で披露されていたようで、当時のカルチャーショックがうかがえます。
10代で異国に単身で来るって、今の感覚で考えるとかなり思い切った決断だったんじゃないかなと思います。

ヒデとロザンナの伝説的な出会いと結婚まで
ここからが本題というか個人的にはこの部分が一番グッときました。
一目惚れからミートソース作戦まで
インタビューでロザンナさんは出門英さんとの出会いについて「私の一目惚れでした」と語っています。
ただヒデさんには当時大勢のガールフレンドがいたそうで、ある時「イタリア出身なんだからスパゲティでも食わせてくれよ」と言われて、国際電話でお母さんにミートソースの作り方を教わったというエピソードがあるんです。
当時は日本の青果店にオリーブすら売っていなかったらしいので、それでも何とかママの味を再現して喜ばれたという話、なんか胸熱ですよね。
お母さんの「イタリア女は美味しい食事で男の胃袋をつかむのよ」という言葉も添えられていて、これって後のイタリア家庭料理研究家としての活動の原点だったのかもしれないなと個人的には思っています。あくまで私の考察ですが。
結婚は6年半ほどの交際期間を経て1975年2月に実現したようです。

紅白初出場という快挙の裏側
1968年に「愛の奇跡」でデビューし、1970年発売の「愛は傷つきやすく」でオリコン1位を獲得、同年にNHK紅白歌合戦に初出場を果たしています。
この時のヒット規模、実はデビュー曲の「愛の奇跡」を上回るものだったという記述もあって、正直これは知らなかったです
当時のイタリア人歌手が日本の歌謡曲シーンでここまで受け入れられたというのは、今考えるとかなりすごいことだったんじゃないかなと思います。
夫との別れ、そして待っていた過酷な現実
47歳での急逝という衝撃
1975年の結婚から15年後の1990年6月17日、出門英さんは結腸がんのため47歳という若さで亡くなっています。
当時ロザンナさんは長男14歳、次男12歳、長女8歳という3人の子供を抱えていました。
ヒデさんは自身のがんを告知されていなかったにもかかわらず、ロザンナさんに「おまえひとりで子供たちを育てていかなくちゃならないかもしれないから、大人になれよ」と語っていたという逸話が残っています。
この言葉、本当に重いですよね……。
番組では夫を亡くした後、暗がりで晩酌をする日々が続いていたことも語られていて、当時8歳だった長女の万梨音さんが「これからどうなっちゃうんだろう」と不安を抱いていたそうです。
イタリアに帰らなかった理由を考察
夫の死後、故郷イタリアに帰ることも考えたそうですが、お父さんから「よく考えなさい」と言われ、子供たちからも「日本で暮らしたい」と言われて残る決断をしたと語っています。
私が思うにはこれって単に子供の意見を聞いたというだけじゃなくて、イタリア国籍のまま日本に居続けることへの覚悟みたいなものも含まれていた気がするんですよね。
実際、いまもイタリア国籍のままでイタリアの大統領選挙の投票用紙が東京の自宅に届くという話もしていて、日本国籍への変更も検討していたようです。
ヒデさんと同じお墓に入りたいから、というのがその理由だったみたいですがこれはあくまで2015年時点でのインタビューなので、現在の国籍状況については確認できていません。
母として、女性として見せた強さ
子育てと仕事を両立させてきた道のりもこの人の魅力を語る上で外せません。
娘・万梨音さんとの絆
長女の万梨音さんは番組内で「私だったらできない、肝っ玉母さんだなと思います」と母への感謝を語っていました。
「いい加減にしてよね、悲しいのはママだけじゃない」
と当時小学生だった娘に一喝されたことがきっかけで、ロザンナさんは
「泣いていてはいけない、そこから生まれ変わってもう一度仕事をするようになった」
と振り返っています。
子供に喝を入れられて立ち直るというの、なんか逆な気もするけどそれだけロザンナさんが娘さんの言葉を真剣に受け止めていたということなんだろうなと思います。
長女の万梨音さんと2人の孫と同居していた時期もあったようです。

息子たち
長男は画家・音楽家として活動する士門さん、次男はミュージシャンの来門さんという肩書きだそうです。
孫は7人いるという話も出ていました。
3人の子供それぞれから孫が生まれているというのを黒柳徹子さんが番組内で驚いていたシーンもあったみたいですね。
異国の地でひとりで3人を育て上げたというのは言葉にするのは簡単だけど実際どれだけ大変だったか、想像するだけでもちょっと胸が締め付けられます。
料理研究家としての顔、なぜここまで支持されるのか
歌手だけじゃないというのがロザンナさんの面白いところです。
ミートソース誕生秘話
先述したミートソースの逸話が原点にあると考えると、2004年6月に発売された「ロザンナのとってもおいしいトマトソース」という商品も、その延長線上にあるものなんじゃないかなと思っています。
その後ミートソースやスパゲティも展開していてけっこう長く愛される商品になっているみたいです。
イタリア家庭の味を日本で再現するというコンセプト、当時としては新しかったんじゃないでしょうか。
イタリア調理師協会名誉会員という肩書きの重み
イタリア調理師協会の名誉会員という肩書きも持っているそうで、これってただの肩書きだけじゃなくて本国のイタリアからも料理の腕を認められているということなんだと思います。
著書も「泣かない ロザンナ40年目の履歴書」「天国の夫へ13年目のラブレター」など複数刊行していて、料理だけじゃなく自身の人生そのものを言葉にしてきた人でもあります。
第一線にいる理由を考えてみた
ここが一番気になる方も多いんじゃないかなと思います。なぜこんなに長く活躍し続けられるのか。
未破裂脳動脈瘤を乗り越えた強さ
2024年5月の徹子の部屋で、3年前に未破裂脳動脈瘤の手術を受けていたことを初めて告白しています。
仲間の歌手がくも膜下出血で舞台上で倒れたことがきっかけで検査を受け、病気が発覚したという経緯だそうです。
1カ月の間に2回の開頭手術という、想像するだけでも大変な状況だったはずですが、黒柳徹子さんに「頭開けたの?」と聞かれて「開けましたよ、がまぐちみたいに」とユーモアで返したという話、正直ちょっと笑ってしまいました。
こういうところに、この人の強さというか、明るさの根っこがある気がします。
娘の万梨音さんも「70代とは思えないくらいの回復力だった」と語っていて身体的な回復の速さも印象的です。

2026年の徹子の部屋出演から見える現在地
2026年7月6日にも徹子の部屋に出演、来日の経緯やヒデさんとの思い出を改めて語っていたようです。
正直こんなに長期間、同じ番組から呼ばれ続けているというのはそれだけ視聴者からの支持が厚いということなんだろうなと思います。コ
ロナ禍でのおうち時間を使って7キロのダイエットに成功したというエピソードも報じられていて、健康への意識の高さも垂れ目じゃなくしっかりしています。
まあ、これは私の肌感なんですがこうした前向きさの積み重ねが、75歳になっても現役でいられる一番の理由なんじゃないかなという気がしています。
調べていて感じたロザンナさんの魅力
正直、今回調べる前は「昔の歌手」というイメージしかなかったんですが、掘っていくうちに全然違う印象になりました。
- 17歳で単身来日し、異国での生活を選び続けた度胸
- 夫の死後もイタリアに帰らず日本に残る覚悟を持ち続けたところ
- 娘の一言で立ち直り、3人の子供を育て上げた強さ
- 開頭手術という大変な経験をユーモアで語れる明るさ
- 歌手業とイタリア家庭料理研究家という二つの顔を長年両立させてきたバランス感覚
调べれば調べるほど単純な「昔の懐かしい歌手」というよりも、異国で人生を丸ごと生き抜いてきた一人の女性、という印象が強くなりました。
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