この記事を読めばお笑い芸人・河本準一(こうもとじゅんいち)さんのプロフィールから芸人としての実力、社会活動、そして闘病と再起の全貌まで、ひとつながりで理解できます。
「タンメンの人」ってイメージが強い方、ちょっと待って。
調べれば調べるほど「この人ほんとに面白い人生送ってるな」ってなるんです。
基本プロフィール
まず基本情報をテーブルにまとめました。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 本名 | 河本準一(こうもとじゅんいち) |
| 生年月日 | 1975年4月7日 |
| 年齢 | 51歳 |
| 出身地 | 愛知県名古屋市生まれ、岡山県津山市育ち |
| 血液型 | AB型 |
| 身長 | 162cm |
| 所属 | 吉本興業 |
| コンビ | 次長課長(担当:ボケ) |
| デビュー年 | 1995年(心斎橋2丁目劇場) |
| 学歴 | 岡山県立東岡山工業高等学校卒業、NSC大阪校13期生 |
生い立ち 「明るい子」が背負っていたもの
河本さんの人生を語るとき、ここを飛ばすと全部薄くなります。
9歳の転機と岡山での幼少期
河本さんは生まれこそ愛知県名古屋市ですが、9歳のとき両親が離婚し、母親の故郷である岡山県津山市へ引っ越すことになります。
この時期、家庭内暴力と学校でのいじめという二重の苦しさがあったことが複数の資料で明らかになっています。
…うん。9歳ですよ。
それでも小学校の通信簿に「明るい」と書かれていたというエピソードが残っています。
後にうつ病を公表した際、「まさか自分が、って思った。小学校の通信簿に明るいって書かれてたのに」という言葉が出てきたんですが、それを聞いてちょっとじーんとしてしまいました。
表では誰より明るく見えた子が一番しんどかったりするんですよね。

サッカー少年から「お笑い」へ
小学校からサッカーを続けていて高校時代には岡山県の国体選抜に選ばれるほどの実力があったのは意外と知られていません。
スポーツ推薦でもおかしくないようなレベルだったのに、高校卒業後の進路はNSCという。そのギャップが面白いというか、彼の人生の「読めなさ」を象徴している気がします。
次長課長結成 「あの相方との関係」が30年続いた理由
中学時代からの仲間だから崩れない
NSC大阪校13期として入学した河本さんは中学時代の同級生だった井上聡さんと再会し、もう一人の同期・山下正人さんを加えた3人組「次長課長社長」を結成します。
約1年で山下さんが脱退して現在のコンビ形態に。1995年、「心斎橋2丁目劇場」からデビューしました。
河本さん本人がインタビューで語っていた言葉がすごく印象的でした。
「NSC入ってからコンビ組んだ人とは違って、お笑いを目指す前からの仲だから、相方の人となりを分かっていること」
が30年続いた秘訣だって。
確かに、そういう関係のほうが強いですよね。怒るタイミングも笑うタイミングも読めてるみたいな。

生活保護騒動のとき、井上聡はどうしたか
調べていて一番「へえ、こういう人なんだ」と思ったエピソードがあって。2012年に母親の生活保護問題が報じられた際、スポンサーから「河本が出るなら番組を降りる」という圧力がかかりました。
そのとき相方の井上さんはプロデューサーに向かって「河本が出ないなら自分も出ません」と言い切り、結果的に『火曜サプライズ』や『シルシルミシルさんデー』をコンビで降板したそうです。
直接河本さんに何かを言ってきたことはない、でも行動で示した。
これって、すごくないですか。個人的にはこの話、かなり心に残りました。
「タンメン」誕生秘話 アドリブで生まれた代表作
ジャッキー・チェンの吹き替えから始まった話
「お前に食わせるタンメンはねぇ!」というあのフレーズ、実はゼロから計算して作ったものじゃないんです。
もともとはジャッキー・チェン映画の吹き替えに登場する中華料理店の店員のものまねで、「そうは酢豚の天津丼だ!」というネタをやっていたそうで。
ある舞台でもう一言追加を求められたとき、頭の中で中華のメニューを探してとっさに出てきたのが「タンメン」だったと。
「意識がぶっ飛んだ状態で言った」というのが河本さん自身の言葉です。
計算ゼロ。アドリブ100%。
それが一時代を作るギャグになるって才能というか、そういう瞬発力って舞台でしか生まれないものなのかもしれないなと感じます。
「最後はタンメンで死にたい」と語るほど、このギャグに思い入れがあるのも伝わってきます。
baseよしもとからの東京進出
大阪「baseよしもと」時代に実力を積み上げ、2002年に東京へ進出した次長課長。ただ最初は収入が激減して苦しかった時期があり、妻と二人でなんとか乗り切っていったというエピソードが残っています。
2005年ごろからブレイクが本格化し、同年代の芸人たちの中でも頭角を現していきました。ちなみに2009年にはS-1バトル7月月間チャンピオンにもなっています。
母の生活保護問題 あの騒動を整理する
何が起きたのか
2012年4月、週刊誌が「年収3000〜5000万円とされる河本準一の母親が、長期にわたって生活保護を受給していた」と報じました。
河本さんは会見を開いて謝罪し、受給された保護費については後に1000万円近くを返還しています。
吉本興業側は「無名時代に福祉事務所と相談して始めたもので不正受給にはあたらない」と当初は主張していましたが世間からの批判は相当なもので、複数のレギュラー番組を降板することになりました。
これ、正直すごく難しい問題だと思っていて。
「法的に問題なかった」と「道義的に問題があった」は別の話で、その両方が入り交じったまま炎上したというのが実態だったのかなと感じます。あくまで私個人の見立てですけど。
河本準一 母親の生活保護費は「全額返納した。返さなくてもいいんだけども」|東スポWEB https://t.co/EkfMCyzL96
— eru__mayaka (@EruMayaka) June 11, 2023
当時のバッシングはほんとに酷かった…発端は政治家(自民党の議員)とマスメディア
全体の奉仕者である国会議員が生活困窮者である一般市民を叩いてるというのが超極悪…
お米と農業 「準組」が生まれた理由
河本さんといえばタンメンのイメージが先行しがちですが、実はここがいまの活動の核心になっています。
病気が「食の大切さ」を教えた
2010年と2015年の2回、急性膵炎を患って入院した河本さん。自分の食生活と体の関係に向き合う中で、「食や命の大切さ」を深く考えるようになっていきます。
こういう経験って、頭でわかることと体で知ることじゃ全然違うので、それが後の農業参入の動機になったのは自然な流れだと思いますね。
「準組」と社会貢献型の仕組み
岡山産のお米「準米」のプロデュースを手がけ、毎月児童養護施設へお米を寄付する「ソーシャル田んぼ」という仕組みも作り上げました。
単純に「芸人がブランド米を出した」じゃなくて購入者も参加できる循環の仕組みになっているところが面白い。
2025年夏にはマレーシアのクアラルンプールにある百貨店「SEIBU」で「準組」のポップアップストアを開催するなど、海外展開も進めています。
「準組」というブランドで、いちご大福なども手がけており、インタビューの場でわざわざ手作りを振る舞うというエピソードも残っています。

10年以上続くボランティア活動
誰にも告知しないで続けてきた
2012年から地元・岡山の介護施設や児童養護施設を月1回ほどのペースで訪問し続けているという話。
大きな宣伝もなく、ひっそりと続けてきたというのが、個人的にはすごく刺さります。「笑いの力を再確認している」と語っており、むしろ自分がもらっているものの方が大きいとも。
日本財団のインタビューでは「社会貢献活動にゴールはない」と発言しており、終わりを決めないというスタンスが伝わります。
何かが起きたから始めたわけじゃなくて、継続すること自体に意味を見出している感じがして、それがこの人の芯なのかなと思いました。

パニック障害とうつ病の公表 「休めば人生が終わる」という恐怖
ここからは2025年以降の話です。かなり重要な部分なのでしっかり書きます。
生放送中に倒れるまで
2025年1月27日、ABEMAの生放送中に呼吸が限界に達し、番組を離脱したまま救急搬送されました。
それ以前からかゆみ・冷や汗・浅い呼吸といった異変を感じていたそうですが、「酸素ボンベを吸いながら収録に出ていた」という証言が残っていて、それほどまでに「休めない」という感覚が強かったことがわかります。
「休めば仕事を失う」という恐怖、これ、芸能界特有の問題だと思っていて。
完璧に見せなきゃいけない、キャラを崩してはいけないというプレッシャーが長年積み重なった結果なのかもしれません。
そう考えると、あの明るいキャラ自体が一種のストレス源だったのかもという気もします。あくまで考察ですが。
「大丈夫?」じゃなくて「よう頑張ったな」
休養発表後、いちばん心に響いたと語っていたのがネプチューンの名倉潤さんからの電話でした。
「大丈夫ですか?」や「頑張って!」という言葉ではなく、「お前、よう頑張ったな。お疲れさん。今度はお前の番な、休んでええよ」という言葉をかけてくれた人は名倉さんだけだったと。
その言葉の重さ、わかる気がします。
はんにゃ・金田さんは「湯治がいい」と調べて車で迎えに来てくれて(ただし部屋を別にしたのは完全に自分の潔癖のためだった)、パンサー・尾形さんは「マカオ行きましょう!」と自分の話しかしなかったと。
そういう仲間の話がなんか一番この人の人間関係の豊かさを表してる気がして、読んでいてほっこりしました。
マレーシアへ渡り「自分でいること」を学んだ
体調を見て主治医と相談しながら、休養中にマレーシアへ2週間ほど滞在した河本さん。
観光目的ではなく、現地後輩芸人の案内で「腕をケガしてるおじさんの家」を訪れたことが最初の経験だったというのが、ちょっと笑えるんですよ。
「日本語が通じない環境が嬉しかった」という言葉が刺さりました。誰にも気を使わなくていい場所を求めていたんですよね。
その体験から導き出したのが「これからはまず、自分でいることを考える」という言葉です。
「今まで圧倒的にまわりの他人のことを考えすぎていた」という反省も。
50年生きてそこに気づくというのは、遅いとも言えるし、気づけただけよかったとも言える。
2025年8月、テレビ復帰
2025年6月1日にパニック障害とうつ病を正式に公表し、同年8月2日には『痛快!明石家電視台』で地上波テレビに復帰しました。
明石家さんまさんら先輩芸人からは「おかえり!」という祝福を受けています。
お待たせしすぎたのかも知れません^_^#ただいま#次長課長#河本準一#パニック障害#鬱病#みんなに理解 pic.twitter.com/m6X2BKDalt
— 次長課長 河本準一 (@Junkoumon) June 1, 2025
2026年、離婚が明らかに
22年の結婚生活に幕
2003年3月に元大阪パフォーマンスドールの重元直美さんと結婚した河本さん。子どもは2人います。ところが2025年春にすでに離婚していたことが、2026年4月13日の報道で明らかになりました。
吉本興業も事実を認めており、2人の子どもの親権は元妻が持つとのこと。
河本さん自身は離婚に反対していたとも報じられています。うつ病・パニック障害の療養中に離婚という、かなりしんどい時期が重なっていたことになります。
これ以上の詳細は現時点で明らかではないのでここは事実だけにとどめておきます。
次長課長・河本準一 離婚していた 所属事務所が認める「事実です」https://t.co/7ckwLwDayb
— スポーツ報知 (@SportsHochi) April 13, 2026
まとめ 河本準一という人の「厚み」
調べれば調べるほど、「タンメン芸人」という一行には収まらない人だなと感じます。
- 1975年4月7日生まれ、岡山育ち。NSC大阪校13期生として1994年入学
- 「お前に食わせるタンメンはねぇ!」はアドリブから生まれた
- 生活保護問題で大きなバッシングを受けるも、約1000万円近くを返還
- 2012年から岡山の介護・養護施設へのボランティアを継続中
- 岡山産「準米」をプロデュース、収益の一部を児童養護施設へ寄付
- 2025年にパニック障害・うつ病を公表、同年8月に地上波テレビ復帰
- 2026年4月に2025年春の離婚が公表された
「まず自分でいることを考える」という言葉が、いまの河本準一さんのテーマなのかなと思います。今後の活動も、引き続き注目していきたいですね。

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