三國清三さんについて調べれば調べるほど、なんというか、単純な「すごいシェフ」という言葉では収まらない人だなって感じてきました。
この記事を読めば三國さんの生い立ちから活動まで、そして個人的にすごく気になった「ミシュランの星がない理由」についても、私なりの考察を交えながらしっかりわかるようになると思います。
「有名シェフなのに星がないのって変じゃない?」
って引っかかってる人、けっこう多いんじゃないでしょうか。
私もまさにそこが気になって、今回いろいろ調べてみました。
三國清三さんのプロフィール
まずはプロフィールを表にまとめておきますね。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 氏名 | 三國清三(みくにきよみ) |
| 生年月日 | 1954年8月10日 |
| 年齢 | 71歳 |
| 出身地 | 北海道増毛町 |
| 現在の肩書き | フランス料理シェフ、「三國」オーナーシェフ |
| 経歴の要点 | スイス大使館料理長→フランス三ツ星レストラン修業→オテル・ドゥ・ミクニ開業 |
| YouTube登録者数 | 約55万人(2026年時点) |
| 主な受章 | レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエ、黄綬褒章など |
増毛町の漁師町で育った少年時代
三國さんの人生を知るうえでまずここを抜きにしては語れないだろうなと思っています。
極貧という言葉がしっくりくる家庭環境
北海道増毛町、7人兄弟の三男として生まれた三國さんですが、家は父親が手漕ぎの漁師、母親が農家というまさに半農半漁の暮らしだったそうです。
学校よりも家の手伝いが優先される日々だったみたいで、正直そこまで貧しかったんだ…って、ちょっと驚きました。
著書のタイトルにも「極貧」という言葉が使われているくらいなので、本人にとってもかなり強く残っている記憶なんだろうなと思います。
16歳、まかないのハンバーグがきっかけだった説
料理人を目指したきっかけが16歳のときに食べたまかないのハンバーグに感動したから、というのがなんだかかわいらしいというか意外と単純な理由だったんですよね。
「札幌グランドホテルのハンバーグはもっとおいしい」
と聞いて、じゃあそこの料理人になろうと決めたらしいんですけど、この発想の飛躍感、正直好きです。
ただ高卒以上が採用条件だったところを直談判で押し切ったというので中卒だった三國さんの押しの強さもこの頃から相当なものだったんだろうなと感じます。
スイス大使館からフランス三ツ星まで、修業時代の駆け上がり方
ここからのスピード感、調べていて正直ちょっと信じられないくらいでした。
20歳で大使館料理長という異例の展開
1973年、帝国ホテルの総料理長だった村上信夫さんの推薦でなんと20歳でスイス・ジュネーヴの日本大使館料理長になったそうです。
20歳って普通ならまだ厨房で下働きしてる年齢ですよね?ここだけでもかなり異例なキャリアだと思います。
鍋洗いから始まったジラルデとの師弟関係
休日には始発電車に乗って料理界のモーツァルトと言われた天才シェフ、フレディ・ジラルデのもとへ通っていたらしいんです。
鍋洗いからスタートして、5年後にはシェフからの推薦状をもらえるレベルまで実力をつけたというのは、地味だけどすごく説得力のある積み上げ方だなと思いました。
その後もトロワグロやアラン・シャペルなどフランス料理界のトップクラスの店を渡り歩いていて、帰国するまでの約8年間、ずっとフランス料理の最前線にいたことになります。
オテル・ドゥ・ミクニと「ジャポニゼ」誕生の瞬間
1985年、30歳で東京・四ツ谷に開いた「オテル・ドゥ・ミクニ」。
ここが三國さんを世界的な存在にした転機なんだろうなと思います。
「洗練されていない」と言われた時代もあった
修業時代には「セパラフィネ」、つまり洗練されていないという評価を受けていたそうなんですが、これって今の三國さんのイメージからするとちょっと意外じゃないですか?
誰でも最初は評価されないものなんだなと、この部分はなんだか励みになる話だなと感じました。
アラン・シャペルのお墨付き「ジャポニゼ」
1990年、アラン・シャペルが来店した際、備前焼で出した冷製フォアグラのコンポートに「ジャポニゼ」という言葉をかけたそうです。
フランス料理の哲学を日本流に翻訳したという意味合いの、料理人としてはこれ以上ない褒め言葉だったんだろうなと思います。
ここから世界各国でミクニフェスティバルを開催するようになり、1993年にはロンドンでのイベントにエリザベス女王が来訪するという出来事もあったみたいです。
ミシュランの星がない理由
正直、ここが一番調べていて熱が入った部分です。
世界的に評価されているシェフなのになぜミシュランの星が一つもないのか。ちょっと本当に気になってしまって、いろいろ掘ってみました。
本人が著書で語っている複雑な事情
自伝『三流シェフ』の中で、三國さん自身がこの件についてかなり正直に触れているようです。
2007年にミシュランガイド東京版が創刊されたとき、当時すでに世界的な評価を得ていたにもかかわらず星が一つもつかず、これが当時の料理界でかなり話題になったらしいんです。
本人も「ミシュランを否定することは自分の存在を否定するのと同じ」というくらい強い言葉で語っているので、単なる負け惜しみではなく本当に長年の葛藤があったんだろうなと感じます。
アラン・デュカスの「スキャンダルだ」発言
これ、個人的にすごく引っかかったんですけどアラン・デュカスが「三國の店に星がつかないのはスキャンダルだ」と発言したという話があるんです。
少なくとも世界的な料理人の間でもそう思われるくらいの実力だったということは間違いなさそうです。
なぜ星がつかなかったのか
三國さん本人が語った内容として、「ミシュラン三ツ星が特別なのは絶対にコピーをしてはいけないから」という発言があるようです。
ここから推測するとジャポニゼという独自スタイル自体が逆に既存の評価基準に当てはまりにくかった可能性があるのかなと、あくまで自分の見立てですが思っています。
それに、当時のミシュラン東京版は創刊直後で、フレンチというジャンルそのものへの評価軸がまだ固まっていなかった時期という背景もあったのかもしれません。
この辺りは正直、はっきりした答えが出ているわけではなくて、いろんな見方があるところなんだろうなと感じます。
ただ、星がつかなかったからこそフランス政府からの数々の勲章というまた違う形の評価につながった、というのはなんだか運命的というか皮肉だけど納得できる流れだなと思いました。
YouTubeで見せる厨房とは違う三國さんの顔
正直、これを知ったときはちょっと驚きました。
あの厳しい厨房で檻を飛ばすことで知られていたシェフが動画では別人みたいに柔らかい表情を見せているんです。
登録者数55万人、じわじわ伸びてきた軌跡
2020年にYouTubeチャンネル「シェフ三國清三」を開設して、2024年8月時点で50.4万人、2025年11月時点で54万人、2026年時点では55万人ほどまで伸びているようです。
コロナ禍で経営がかなり厳しかった時期に始めたチャンネルが、うして着実に育っていったのを見ると、なんというか、シェフの粘り強さみたいなものを感じますね。
なぜ人気なのか、個人的な考察
スーパーで買える身近な食材で作る簡単レシピをワインを楽しみながら紹介する姿がいいんだろうなと思います。
フレンチの巨匠がスーパーの食材を使うというギャップ、これがかなり効いているんじゃないでしょうか。
それに20代30代の来店客が増えたという具体的な成果も出ているらしいので、動画がそのままお店の集客にもつながっているというのは正直けっこう理想的な流れだなと感じました。
70代からの新たな挑戦「三國」という店
37年続いたオテル・ドゥ・ミクニを2022年末に閉じて、2025年9月に新店舗「三國」をオープンさせたというのは、シェフの人生の中でもかなり大きな決断だったはずです。
カウンター8席、メニューなしという大転換
80席ほどあった店舗から、カウンター8席だけの小さな店へ。
しかもメニューがなくてその日の食材を客と相談しながら決めていくスタイルに変わったそうです。
これって、ある意味グランメゾンでは絶対できなかったことを、70歳を超えてようやく実現できたということなんだろうなと思います。
「70歳から新しいことに挑戦した実績を作れば、後輩たちも続いてくれる」
という言葉、シェフらしい前向きさだなと感じました。

この記事のまとめ
- 三國清三さんは北海道増毛町の極貧家庭出身、16歳のまかないのハンバーグがきっかけで料理人を志した
- 20歳でスイス大使館料理長就任、ジラルデやアラン・シャペルら世界的名匠の下で修業
- 1985年開業のオテル・ドゥ・ミクニで独自スタイル「ジャポニゼ」を確立
- ミシュランガイドに一度も掲載されなかった理由は本人の証言でも複雑で、独創性の評価軸との相性が影響した可能性が考えられる(あくまで推測含む)
- YouTube登録者数は55万人以上にまで成長して厨房とは違う柔らかい表情が人気を集めている
- 2025年9月にカウンター8席の新店舗「三國」を開業、70代でも新たな挑戦を続けている

コメント