この記事を読めば俳優・佳久創(かくそう)さんが小学校時代から大学を経て俳優に転身するまでの学歴と、各時代のエピソードがまるごとわかります。
ドラマ『ノーサイドゲーム』や大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で存在感を発揮し、近年も話題作への出演が続く佳久創さん。
調べれば調べるほど「俳優になるべくしてなった人だな」という印象を受けます。でも実は、俳優の道を歩み始めるまでに、ラグビーという競技に青春のほぼすべてを注ぎ込んでいたんです。
その軌跡を学歴ごとに掘り下げてみました。
小学校時代 野球少年として育つ
出身小学校は現在も非公表
まず最初にお伝えしておくと佳久創さんの出身小学校は現在も公表されていません。
名古屋市内の公立小学校に通っていたとみられますが、学校名は現時点で確認できていない状況です。
父・郭源治の影響で野球少年に
こちらは比較的よく知られていること。佳久さんのお父さんは、元中日ドラゴンズのエースクローザーとして活躍した郭源治さんです。
プロ野球選手の父を持ち、子ども時代は自然と野球の道へ進むことになりました。ポジションは父と同じピッチャーを務めていたそうです。
ちなみにもともと役者への憧れは子ども時代からあったそうで、双子の兄・佳久耀さんと芝居ごっこをして遊ぶような少年だったというエピソードも出てきます。
なんか、その光景を想像するとほのぼのしますよね。
中学校時代 運命的な出会いがここから始まる
愛知中学校について
佳久創さんが進学したのは私立・愛知中学校です。
名古屋市千種区にある中高一貫校で、そのまま系列の愛知高校に内部進学できる学校です。
愛知中学校の偏差値は45で、愛知県内の中学校では中堅程度の位置づけになります。
仏教精神(曹洞宗)に基づく教育を行っており、花まつりなど仏教ならではの行事も特徴のひとつです。めずらしい教育方針ですよね、正直。
入学してすぐ野球部を半年でやめる
中学に入ってからも野球部に入部した佳久さんですが、入学から半年で退部しています。
「父と比べられることが嫌で仕方がなく野球を辞めてしまいました」
と本人自身が公式インタビューで語っています。
有名選手の息子として見られることへのプレッシャーって、傍から見ていてもきつそう。
野球が嫌いになったわけじゃなくて、「比べられること」が嫌だったというのがまた切ない話だと思いました。退部後はしばらく帰宅部として過ごしていたそうです。

財布をなくしてラグビーと出会う
これがめちゃくちゃ好きなエピソードなんですよ。
ある日、佳久さんは学校へ向かう途中で財布を落としてしまいました。
その財布が偶然、学校の生徒指導室に届けられていたのです。
財布を取りに行くと、そこにいたのがラグビー部の顧問の先生。
顔を合わせた瞬間に「いい体をしているな。ラグビーをやってみないか」と声をかけられ、佳久さんは即座に「やります」と答えました。
学校にラグビー部があることすら知らなかったらしいので、もし財布を落とさなかったら。という「if」を想像すると、なかなかに面白いですよね😮。
野球を辞めて何かスポーツをしたかったタイミングだったことも、背中を押した理由のひとつだったと語っています。
「始めた頃は怖かった。特にタックルはとても勇気がいりました」
とも振り返っていますが、持ち前の俊足でトライをとりまくれたことが楽しさにつながり、あっという間にラグビー一色の日々になっていったみたいです。
中学3年生の後半からのスタートなので、実質1年程度でここまで熱中できたのはすごいですね。

高校時代 愛知高校で7人制全国準優勝
愛知高校とはどんな学校か
進学したのは私立・愛知高校。中学校と同じ学校法人が運営する系列校で内部進学という形で入学しています。
偏差値は65〜66程度で、愛知県内の私立高校155校のなかで7位に入るほどの難関校です。
1876年創立という歴史ある仏教系(曹洞宗)の学校で共学校です。1年次は全員「共通コース」に在籍し、2年次から理系・文系にわかれていく仕組みになっています。
野球部がとくに有名で数多くのプロ野球選手を輩出している学校でもあります。佳久さんのお父さんが中日ドラゴンズのスター選手だったことを考えると、ちょっとした縁を感じる話ですよね。
部員13人という環境での挑戦
当時の愛知高校ラグビー部はけっして強豪チームではなく、部員はわずか13人しかいませんでした。
15人制の大会に必要な人数にも届かないので、7人制や10人制の大会を中心に活動することになります。
このあたり、自分の想像だと「強い学校に転校したほうがよかったのでは?」という考えも浮かびますが、内部進学という経緯とまだ競技歴が浅いことを踏まえると、強豪校に飛び込んでいける状況ではなかったのかもしれません。
あくまで私の考えなんですけどね。
10人制東海大会優勝と7人制全国準優勝
とはいっても、結果は本物でした。
高校3年生のとき、10人制ラグビー東海大会で優勝を果たします。
さらに7人制ラグビーの東海選抜にも選出され、全国大会で準優勝という成績を収めました。
「部員13人で全国準優勝」というのはよく考えると相当すごいことじゃないでしょうか。
個人の力がそのまま結果に直結しやすい7人制とはいえ、花園常連校の選手たちと渡り合って2位に入ったわけですから。
ちなみに後の明治大学進学でもこの7人制全国準優勝の経歴が大きなポイントになるんですよね。

大学時代 明治大学法学部へスポーツ推薦で進学
明治大学のラグビー部とはどんな環境か
進学したのは明治大学法学部。
スポーツ推薦での入学です。明治大学のラグビー部は全国でもトップクラスの名門で、数多くの日本代表選手を輩出してきた歴史がある部活です。
明治大学のスポーツ推薦は通常、競技実績と学力の両方を審査される選考プロセスを経ます。
花園(全国高校ラグビー大会)の常連校以外からセレクションを受けること自体、異例に近かったとも言われていて、7人制の全国準優勝という実績を頼りに挑戦したこと自体、なかなかチャレンジングだったんじゃないかと思います。
法学部の偏差値は62程度でスポーツ推薦とはいえ一定の学力も求められる学部です。
4軍からAチームへ1年半での昇格
入部した当初は4軍(Dチーム)からのスタートでした。
15人制ラグビーをほとんど経験していなかったので、まあそれも当然といえば当然なんですが。ポジションはウイングで、持ち前の俊足を武器に出場機会を増やしていきます。
2年生の12月には1軍(Aチーム)への昇格を果たします。
入部から1年半足らずでのトップ昇格は、かなり異例のスピードだったはずです。
7人制日本選抜で出場した上海での試合で大怪我
そして、まさに「やっと掴んだ」というタイミングで悲劇が起きます。
大学2年生で7人制ラグビーの日本選抜に選ばれ、国際大会「上海セブンズ」に出場。ところがその試合中に左ひざ前十字靭帯の断裂という大怪我を負い、復帰までに約11ヶ月を要することになりました。
「怪我を理由に大好きなラグビーを辞めるのが嫌だったので、とにかく歯を食いしばって、もう一度レギュラーを取れるように頑張りました」。
これは愛知県のスポーツメディアに掲載されたインタビューでの言葉です。ちょっと胸にくる言葉だと思いました。

復帰後もなかなか本領は発揮できず
3年生になって復帰したものの、「結局思うようなプレーはできなかった」と本人が語っています。
ジュニアジャパン(15人制日本代表の予備軍)の練習にも参加しましたが、万全の状態には戻りきれなかったようです。
不完全燃焼のまま大学4年間を終えた佳久さんは「社会人で活躍したい」という強い思いを胸に卒業します。その思いが次の選択につながっていくんです。
大学卒業後はトヨタ自動車ヴェルブリッツから俳優へ
トヨタ自動車ヴェルブリッツに入団
大学卒業後はトヨタ自動車ヴェルブリッツ(現・トヨタヴェルブリッツ)に入団し、2013年から2015年まで在籍しました。
社会人ラグビーの強豪チームで再起を誓ったものの、古傷となった左ひざが完全に回復することはなく、
社会人2年目に膝を大きくケガしてしまって引退を余儀なくされました
とメディアインタビューで語っています。
父は中日で活躍した守護神…佳久創、『豊臣兄弟!』の役作りで「15キロは増やしましたね」#佳久創 #豊臣兄弟 #土スタ https://t.co/JoOPEwFljf
— マイナビニュース・エンタメ【公式】 (@mn_enta) June 6, 2026
「合格なら上京する」という一大決心
引退後はトヨタ自動車の社員として働いていましたが、もともと抱いていた俳優への夢を捨てきれなかった佳久さんは、現在の所属事務所のオーディションを受けることを決意します。
「合格なら上京して俳優になる、不合格なら諦めて社員を続ける」
という条件を自分に課したそうです。
そのオーディションに見事合格し、2017年に会社を退社。俳優としての新たな道を歩みはじめました。
「もともと役者をやりたかったので始めました」
という言葉がなんだか子どもの頃の夢と地続きになっているようで印象的です😊。
まとめ 佳久創の学歴一覧
- 小学校は名古屋市内の公立小学校(校名非公表)。父の影響で野球に打ち込む
- 中学校は私立・愛知中学校(偏差値45)。中3の秋に財布紛失がきっかけでラグビーを開始
- 高校は私立・愛知高校(偏差値65)。7人制東海選抜・全国準優勝。10人制東海大会優勝
- 大学は明治大学法学部(スポーツ推薦)。2年生で日本選抜入りも左ひざ前十字靭帯断裂
- 卒業後はトヨタ自動車ヴェルブリッツ入団→2015年引退→2017年俳優転身
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